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如意申町の沿革

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現在の如意申町は、新⽊津⽤⽔完成を⽬当てに、如意村(現在の名古屋市北区如意)から移住した⼈々により開拓が始められました。
「如意申新⽥開闢名前覚」という古⽂書には、寛⽂元年(1661年)ごろに如意村から⽯⿊九郎右衛⾨、⻑⾕川与兵衛らがきて開梱を始め 12 ⼾となり、その後 1700年頃までに近隣各村から 11⼾が移住し、合計 23 ⼾となり村の形ができたと記されています。
また、「尾張徇⾏記」にはその由来を次のように記してあります。「この新⽥は、昔如意村の農⺠らが開いたので如意新⽥といった。亨保元年(1716年)申年の検地以降、如意申新⽥と称した。」
明和 5 年(1768年)には如意の⽒神⼤井神社から六所明神を当地の鎮守として迎え、⽒神六所社の東の辺りから開かれていったと⾔われています。
⽂化年間(1810年代)の村況は、41 ⼾村⺠ 171 ⼈の記録があり、近世を通じて畑地が卓越していました。
明治 22 年、39 年の町村合併時には春⽇井村、勝川町に編⼊され、この頃にはほぼ全域が⽔⽥化され、集落は地区の北部に点在していました。


1945 年~1950 年頃の航空写真

昭和 23 年には現在の春⽇井市如意申町となり、昭和 30 年代中頃までは、農業上の⼟地利⽤にはあまり変化がみられませんでしたが、県道が整備されてからは、道路沿いに⼯場の⽴地がみられるようになってきました。昭和 35 年の如意申町の⼈⼝は 82 世帯 415 ⼈となっています。


1979 年~1983 年頃の航空写真

昭和 50 年代から区画整理事業が本格的にすすむと街の様⼦は⼀変し、⼯場、事業所の進出、宅地化の進⾏が顕著になり、⽔⽥は⼋⽥川沿いの地域の他にはほとんどみられなくなっていきま
す。昭和 55 年には、649 世帯 2232 ⼈にまで激増します。
昭和 53 年に市内 29 番⽬の⼩学校として松⼭⼩学校が開校し、昭和 61 年には愛知県内の県⽴普通科⾼校としては最も新しい春⽇井南⾼等学校が開校しました。


2007 年の航空写真

令和元年の町内の⼈⼝は、2827 世帯 6491 ⼈が暮らす街となっています。
参考図書:「春⽇井市史」「春⽇井郷⼟史」

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